ヘルプマークを持つデメリット。条件は必要だと強く主張したい

はじめに

私は内部疾患の障碍者手帳3級です。
私自身、生まれつきの障碍者という観点から
ヘルプマークの存在を分析したいと思います。

独断と偏見ですが、最後までご覧ください。

ヘルプマークとは

地方自治体に申請すれば
条件なく誰でももらえます

確かに誰かの助けが必要な方は存在し、
助け合う世の中になって欲しいと思います。

しかし、この「誰でももらえる」という
あいまいさがヘルプマークの存在を
私は善意とは取れなくなっています。

条件はこれだ!

ヘルプマークを付ける条件として
「大きな音が苦手です」という
その人が配慮してほしい内容を記載すべきだと私は考えます。

上記の例は実際見たことがあり、
「なるほど」と私はこの方へ配慮を
スッと受け入れる事が出来ました。

ただヘルプマークをぶら下げても
何に配慮するべきかわからないのは
フェアじゃないと思います。
また、精神的な発作がおきても
原因がわからず対応が出来ないため、
ヘルプマークの意味すらないと私は感じてしまいます。

ヘルプマークを持つ懸念点

①障碍者とヘルプマークの違いが判らない
②ヘルプマークを使って努力の放棄が起こる
③本当に手助けが必要な人が悪い目で見られる

ヘルプマークの考案者はヘルプマークを持つ人の間口を広げすぎて本来の助け合いを遠ざけている気がします。

どんな人にも苦労はあるし、100%幸せのまま人生を終える人はいないと思います。
そして、誰しも努力や忍耐がなく自分が成長できない人はそれなりの人生になります。

それをちょっと疾患があったり、不安があるからと言って「私を理解して」と言わんばかりにヘルプマークだけをぶら下げられても厚かましいとすら思ってしまいます。

これは私が生まれてから水分制限や薬の服用、体力がないため、好きなサッカーに制限がかかり、それでも自分が出来る範囲でサッカーをやってきた事、また体が小さいことでいじめにもあり、死を考えた事もあるけど「私を理解して」とは言ったことがない。
また、誰かに助けてほしいと思ったことがない。
これは自分で走り続けることを誰かに頼ってしまうと楽したい方向に逃げてしまうと何となくわかっていたからです。

今ではこの経験が周囲にとって「苦労の対価」として認められるようになりました。
自分としても楽な方に逃げずによかったと思います。

つまり、ヘルプマークを持つという事は
知らない間に努力の放棄が起こる可能性があることを理解して持つべきだと思います。


実際見た最悪ケース

朝の通勤電車の中で、車内が混在している状況にありました。
とある駅に電車が到着し、ドアが開くと人がいっせいに入ってきます。
その人込みを押しのけて、寝ながら座っている人を起こし、ヘルプマークを見せて席を譲れと言ってます。席に座っていた人は理解がある方で席を譲りましたが、ヘルプマークを見せた人はお礼を言うこともなく、イヤホンを耳に突っ込んだら携帯でゲームをしてました。

こんなことにヘルプマークを使う人がいるのかと驚愕しました。
自分のためなら人を押しのけて寝てる人を起こし、席を譲ってもらってもお礼なし!
自分が楽するための印籠じゃないんだよ!
こういう人を見ると本当にヘルプマークの配布基準に疑問を感じます。

これが先述した「努力の放棄」です。
自分のためなら人が我慢するべきだ
楽な方に逃げてしまう良い例です。

最後に

私は障碍者手帳を持ってますが、
ヘルプマークを持つ気はありません。

自分の体や精神は自分がコントロールするべきだし、仮に他人の助けが必要になっても「私を理解して!」と言ってるようなヘルプマークを持とうとは思いません。

自分のことは自分で解決する。

不特定多数の人に助けを求めるなら
不特定多数の人にお返しをするべき。

もらうばかりの人間はつけあがり、
人間として魅力がなくなる。

人間は年を取ると色々ガタがきて思うように体が動かなくなります。
この状態こそヘルプが必要だと思うのです。

私はヘルプマークがなくても
助けが必要な人を助けていきたいと思います。

多様性とは障碍者だけがクローズアップすることではなく、双方の状況や考え方を理解することだと私は思います。

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